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最高の美にこだわり、それを自ら生み出すことを求め続ける幸吉は、良いものに触れる機会を得る努力や手間を惜しみませんでした。常に世界中からジュエリーやファッションの知識や情報を収集したり、優秀な人材を海外に派遣したりして、最新のデザインや細工技術を積極的に取り入れていきました。
世界に接することで感性を高めていった幸吉は、素材選び、デザイン、彫金技術といったそれぞれの専門性を極め、最高の技量を発揮してこそ、はじめて世界に通用するジュエリーを創りだせると確信。その信念のもと、1907年にジュエリー製作の要として、東京築地に「御木本金細工工場」を設立しスペシャリスト制を導入します。また、銀座店には専従のジュエリー・デザイナーを迎え入れてデザイン・ルームを新設し、デザイン的にも技巧的にも優れたオリジナル作品を創り出す体制を整えたのです。

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本格的にジュエラーとしての道を歩みだした「御木本真珠店」の名は瞬く間に国内外へと知れ渡り広く世界各地から注文を受けることになります。幸吉は自らが作り出した真珠とジュエリーの美しさが認められた喜びを感じながら、顧客からの期待に応えるべく1913年のロンドン出店を皮切りに、パリ、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコ、上海、ボンベイと次々に支店や出張所を開設していきます。
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また、幸吉は、各国で開かれる博覧会に作品を出展することにも意欲的でした。それは、より多くの人々に真珠の美しさと魅力を伝え、真に美しいものを愛する多くの人々の心に応えたいと願ったからです。1926年にフィラデルフィアで開催された万国博覧会をはじめ、シカゴ、パリ、ニューヨークなど、数多くの博覧会に出展された華麗な作品の数々は、常に真珠の美しさの象徴として、文化の香り高いアートとして、最高の評価とともに喝采を持って迎え入れられました。

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1930年代の昭和初期、これまでの幸吉の努力の甲斐もあってか真珠の人気は一層高まり、それに伴って真珠養殖も広く行われるようになりました。ところが、品質を維持できない養殖業者も同時に増え続け、粗悪な真珠までもが市場に出回るようになってしまったのです。これは、高品質のジュエリーを生み出そうと精魂込めて日々製作に携っていた多くのジュエラーたちにとって、信じ難い状況でした。真珠の美しさを伝えようと奔走してきた幸吉も同じく苦い思いを感じます。
その優れた品質で世界から認められていた日本の真珠。幸吉は「養殖真珠の品質を守って欲しい」という国内外からの強い要請を受け、1932年に日本養殖真珠水産組合を設立。さらに当時外国との取り引が最も多かった神戸商工会議所前広場で燃え盛る炎に低品質な真珠を次々と投げ込むパフォーマンスを自ら演じ、品質へのこだわりを社会に問いかけました。
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