
 |


大いなる自然に挑戦し、幾度も失敗を強いられながら真珠の養殖を成し遂げた幸吉は、自然に対して畏怖の念を抱きつつ感謝の気持ちを年々強くしていきます。なぜなら自然は、愛する真珠を育むだけでなく、四季折々に表情を変える繊細な日本の美しさそのものだったからです。四季の美は「ミキモトスタイル」と賞賛されたデザインスタイルの確立に多くのインスピレーションをもたらし、「MIKIMOTO」ジュエリーの根幹を成していきました。
|
 |
 |
 |
 |

さらに真珠の養殖を通じて自然の摂理と向き合い続けた幸吉は、その厳しさとともに、人の手によって簡単に壊れてしまう自然の弱さも理解していました。だからこそ人と自然の共生に心を砕き、環境に対する意識が低かった当時から、日本の美しい自然を保護し、その素晴らしさを伝えるため、観光に力を入れる必要性を強く説き続けました。
|

 |

幸吉は、とりわけ豊かな自然に恵まれた真珠の故郷・伊勢志摩に惜しみない愛情を注ぎ込み、その美しい海と山を守るため、国立公園として認定されるよう力を尽くします。また、かつて妻のうめと共に真珠の養殖に成功した相島(おじま)を「真珠ヶ島」(現在のミキモト真珠島)と名付け、世界から数多くの来訪者を招いて、真珠の魅力と素晴らしい自然や景観を紹介する事にも熱心でした。 |
 |
|
 |
 |
 |
 |
 |

こうして伊勢志摩の名が広まるにつれ今度は交通の便の悪さを痛感した幸吉は、トンネルを通し、水路を開き、要所に道路や鉄道まで開通させるなど周辺の交通網を自ら整備していきます。また、伊勢神宮への参道の一つである御幸(みゆき)道路の街路樹に、四季の移ろいにあわせて色づくよう、桜、楓、楠を寄贈します。そうした数々の功績を残した幸吉は、伊勢志摩の人に深く愛され、今も「御木本」の名を残す道路が存在しているほどです。
|

 |

山高帽にフロックコート。時に人を驚かせるような印象的な発言。仕事では世界の大都市を飛び回り、華やかな社交の場ではその中心に席を置く。多くの人々にとって幸吉は特別に目立つ存在として写っていたかも知れません。しかし、晩年は故郷である伊勢志摩の海から離れて暮らすことはありませんでした。
決して贅沢を好むわけでもなく、簡潔な暮らしの中で感性を高め、質実を極め、ものの本質を探求することに生きた幸吉。その素顔は、頑ななまでに素朴で男気に満ちたものであったと伝えられています。
鳥羽の町並みと鳥羽湾が眼下に広がる日和山での生活の後、晩年は英虞湾を一望する「真寿閣」と呼ばれる住まいに居を移します。梢からもれる柔らかな陽光と海からの穏やかな風に包まれながらの簡素な暮らし。そして幸吉96歳、英虞湾からの煌きの中、真珠一筋に夢をかけた生涯を閉じたのです。
|
 |
|
 |
 |

|
 |
|