SKIP TO CONTENT

世界の歴史の中のネックレス

2人のライバル女王とネックレス〜エリザベス1世とメアリー・スチュアート〜

図1(左):1554年 即位1年後のメアリー1世 アントニス・モル画
図2(右):1558〜1560年ごろ 即位直後のエリザベス1世 作者不詳

今回は、エリザベス1世とメアリー・スチュアートを取り上げます。
エリザベス1世が生きた16〜17世紀のヨーロッパは、カトリックとプロテスタントの対立が最も激化した時代と言われています。エリザベス1世と先代女王のメアリー1世も、異母姉妹ながら敵対していました。前々回で述べたような母親同士の確執があったうえに、メアリーは熱心なカトリック教徒、エリザベスはプロテスタントで、メアリーがプロテスタントを激しく弾圧したからです。
1558年、姉の死によって女王の座についたエリザベス1世はプロテスタントを開放しましたが、それ以降はカトリックからの排斥活動に悩まされ続けることになります。
さて、即位直後の姉妹の肖像を見比べてみましょう。

毛皮の有無の違いこそあれ、二人の着衣は似ています。当時流行していたスペイン風の、凝った織りでダークな色合いの生地を使ったファッションです。2人が身に着けているジュエリーは決して控えめではないのですが、この後、どんどんエスカレートしていくエリザベスのスタイルに比べれば、非常にシック、言い方を変えると地味に見えます。

図3(左):1575年ごろ エリザベス1世 ニコラス・ヒリアード画
図4(右):1580年ごろ エリザベス1世 作者不詳

一方、次の2枚の肖像画をご覧ください。どちらもエリザベスの女王在位20年前後のものです。

即位の頃に比べると、ゴージャス感が格段に増しています。
それにしても、なぜ、彼女はこんなに大量のジュエリーを身にまとうようになったのでしょうか? 宝石好きで知られた父王ヘンリー8世、あるいはファッショナブルな浪費家だった母アン・ブーリンの影響でしょうか? それもあったかもしれません。けれども、エリザベスは、もっと切実な問題に対処しようとしていたのです。
実はエリザベスは、彼女の王位継承を不当とする重臣を多数かかえていたうえに、フランス国王アンリ2世からも“メアリー・スチュアート(※)こそが正当なイングランド王位継承権を持つ者だ”と名指しでライバルを示されていました。

こうした政治的な反対勢力や強力なライバルの存在は、エリザベスにとって大きな脅威でした。
自分に異を唱える勢力を抑えて統治しなければならなかった彼女が政権を磐石なものにするために取った戦略が、豪奢なファッションとジュエリーだったのです。エリザベスは、メアリー・スチュアートの容姿や服装についての情報を逐一入手し、それを上回る装いを目指したと言います。人々を圧倒するような華やかな装いやメイク、目もくらむようなジュエリーによって神々しさを演出し、比類なき威厳やカリスマ性を示そうとしたのではないでしょうか。
※ スコットランド女王メアリー・スチュアート。美貌と多才で知られたメアリーは、当時アンリ2世の息子と結婚したばかりで舅からも溺愛されていました。彼女はエリザベスのいとこであるジェームズ5世の娘であったため、イングランド王位継承権があるとみなされており、また、自身も、それを示す紋章を使用していました。

図5:1559年ごろ メアリー・スチュアート フランソワ・クルーエの工房

さて、1568年、滝のようにパールネックレスを重ね、ドレスの隅々にまで真珠を縫いつけて着飾ったエリザベスのもとに、皮肉にも、ライバルのメアリー・スチュアートが亡命して来ます。スコットランドで廃位され、異母兄からの攻撃に敗れて、エリザベスを頼って逃れて来たのです。
メアリー・スチュアートは、イングランドへの亡命に際し、たくさんのジュエリーを持ち込んで来ました。中でも有名なものが「ローマ教皇の真珠のネックレス」「7つの真珠のネックレス」などと呼ばれる大粒の真珠が7個ついたネックレス、そして当時は非常に珍しかった黒蝶真珠のネックレスでした。これらはメアリーがフランス王太子妃となった時に、姑のカトリーヌ・ド・メディシスから譲られたものとされています。

エリザベスは、亡命して来たメアリー・スチュアートを一旦は受け入れたものの、その扱いに困り、20年近くにわたって幽閉(但し牢獄にではなく、イングランド内のあちこちの城への軟禁)した挙句、最終的には自分を暗殺しようとした罪で処刑しなければならなくなります。
処刑前のメアリー・スチュアートにエリザベスが 「ネックレスを渡すように」と命じた、あるいはネックレスを奪い取ったなどという話もありますが、真偽のほどは不明です。そもそもエリザベスは処刑の執行書への署名をためらい続けたそうですから。

経緯はともあれ、メアリー・スチュアートの真珠は、結局、エリザベスのものになったようです。

メアリー・スチュアートの処刑をきっかけに勃発した「アルマダ海戦」。カトリック国スペインとの戦いに勝ったのは、イングランドでした。戦勝の記念に描かれた上の絵の中で、エリザベスが身に着けているジュエリーをご覧下さい。ヘッドジュエリーの大粒の真珠や、胸元のレイヤーネックレスの中に見え隠れする黒蝶真珠のネックレスなどは、もとはメアリー・スチュアートのパールジュエリーだったものと言われています。

ところで、当時のイングランドはファッションの面では自ら流行を生み出したということはなく、フランスやスペインの影響を受けていました。但し、エリザベスのスタイルは、もはやオリジナルといえる領域まで達していたと言えるでしょう。これ以上ないほど巨大化させたレースの襟は、ある時は丸く、ある時は扇形に形作られ、エリザベスの顔の周囲を後光のように照らしました。袖のふくらみも襟に負けないボリュームにアレンジされました。パールネックレスは長さもさまざまですが、必ず襟の形とバランスを取る長さが選ばれ、大量に重ね着けされました。また、髪にも衣装にも、ありとあらゆるところに真珠を縫い付け、全身を真珠の光で覆いました。こうした“エリザベス・スタイル” を作り上げるために、イングランド中の真珠が足りなくなるほどだったとも言われています。
こうした、エリザベスの“真珠好き”の情熱に火を点けたのは、ライバル、メアリー・スチュアートの真珠だったのかもしれません。

さて、イングランドを大国に発展させたエリザベスは、17世紀初頭に亡くなりました。その肖像画に象徴される装飾過多なファッションは、その後メアリー・スチュアートが愛したフランス風のすっきりとした流行に取って代わられることになり、その王位もまた、メアリー・スチュアートの息子であるジェームズ1世に引き継がれることになります。