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世界の歴史の中のネックレス

お揃いのパールが結んだ愛〜チャールズ1世とヘンリエッタ・マリア〜

今回は、ある国王夫妻と真珠のかかわりをご紹介します。
次の2枚の肖像画は偶然に同じ年に描かれたもので、左は王太子時代のチャールズ1世、右はフランス王女ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス。後のイングランド国王とその王妃です。
スペイン風の大きなラフ襟と、その上に乗った巨大なパールピアスが、まるでお揃いのようです。

図1(左):1615年 チャールズ王太子 アイザック・オリバー画
図2(右):1615年ごろ ヘンリエッタ・マリア王女 フランシス・プールビュス(子)画

チャールズ1世はこの時15歳、ヘンリエッタ・マリアに至っては僅か6歳という幼さ。まだ縁談の気配もありませんでした。
6歳にしてはゴージャスなジュエリーを身につけたヘンリエッタ・マリアですが、彼女はフランス国王アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシス(メディチ)の末娘。稀代の大富豪の財宝に囲まれて育った王女にしてみれば、これもごく当たり前の装いだったのでしょう。
一方の王太子チャールズも、先々代の女王エリザベス1世が遺した膨大なパールコレクションを受け継ぐ身。そのコレクションの中には、彼の祖母であるメアリー・スチュアートの持ち物だったパールも含まれていたはずです。ひょっとすると、そのうちの一粒を身につけていたのかもしれません。

チャールズ1世は24歳で王位を継ぐと、ヘンリエッタ・マリアと結婚しました。この時、ヘンリエッタ・マリアは15歳。両親からは洋梨型の大粒のパールイアリングが贈られたといいます。ヘンリエッタ・マリアはその他にも無数の真珠やダイアモンドのジュエリーと莫大な持参金、豪奢な調度品などを携えて、何十人もの取り巻きの人々とともにイングランドに輿入れしたそうです。ところが、この取り巻き連中が邪魔をして、チャールズ1世との仲はなかなかうまくいきません。そのうえ、敬虔なカトリック信者であった彼女は、英国教会(プロテスタント)での戴冠を拒否しました。このことによって、臣下からも国民からもそっぽを向かれてしまいます。そのためでしょうか、結婚した1625年から1631年ごろまでの数年間のヘンリエッタ・マリアの肖像画は、ほとんど残っていません。
しばらくして、妻との仲がうまくいかないのは、妻がフランスから連れて来たお供が原因と考えたチャールズ1世は、武力を行使して、彼らを国外に追放してしまいます。国王のこの暴挙に最初は激怒した王妃でしたが、邪魔立てする者がいなくなったことによって、やがて二人はとても仲睦まじくなりました。 1632年ごろからは、名匠アンソニー・ヴァン・ダイク卿の手によって描かれたヘンリエッタ・マリアの肖像画が数多くみられるようになります。中には妊娠中だったのではないかと思われる姿も何枚か描かれています。

図3(左):1632年 ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス アンソニー・ヴァン・ダイク画
図4(右):1632〜35年ごろ ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス アンソニー・ヴァン・ダイク画

これらのヘンリエッタ・マリアの装いは、少女の頃のものとはずいぶん雰囲気が異なります。 実は、1620〜30年ごろには、ファッションの牽引国がスペインからオランダに移り、劇的なまでの変化があったのです。 巨大なラフ襟は姿を消してデコルテが露わになり、タイトだった袖に代わって、風船のように膨らんだ丸いパフ・スリーブが登場。重厚な生地よりも柔らかく軽さのある生地が好まれるようになり、シルエットも直線的なものからふんわりと丸いものへと大きく変化しました。高く結い上げていた髪を顔の周りに垂らし、服の上にふんだんに飾られていた真珠のネックレスは、ドレスの襟の変化に応じて、襟の外側に留め付けるものと、ぴったりと首に着けるチョーカーレングスに分かれました。そして、まるでその2つの間を埋め尽くすように、繊細なレースが複雑に重ねられるようになったのです。

図5(左):1636〜38年ごろ ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス アンソニー・ヴァン・ダイク画
図6(右):1638年 ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス アンソニー・ヴァン・ダイク画

現在残っているヘンリエッタ・マリアの肖像画を見ていると、チョーカーレングスのパールネックレス、下がるタイプのパールイアリング、そしてパールをシニヨンに巻きつけるというスタイルを好んでいたようです。これをジュエリーコーディネートの基本にして、ネックレストップを足したり(図3、5)、服にさらにネックレスを留めたり(図4)、他のジュエリーと合わせたり(図4、6)しています。
ここで特に触れておきたいのが、ヘンリエッタ・マリアのパールイアリングの装い方です。彼女が両親から贈られたパールイアリングは大きなものでしたが、流行の髪型では隠れてしまいます。そこで、下がる長さが異なるイアリングを足して2重にして垂らしたり(図5)、髪をドレスの装飾とお揃いのリボンで金具に結わえてパールを目立たせたり(図6)と、工夫しています。特にパールを2重に下げる着け方は、ヨーロッパじゅうの宮廷で、数多くの貴婦人たちが真似をしました。

さて、深い愛を築き始めたチャールズ1世とヘンリエッタ・マリアでしたが、2人の間に次々に子供が産まれる一方で、イングランド国内は次第に大きな戦乱へと向かって行きました。
内乱の原因にはヘンリエッタ・マリアの宗教や浪費癖もあったとされ、王妃は国民から憎しみの対象となっていました。国外に居を移したヘンリエッタ・マリアは、自分の真珠やチャールズから委ねられた宝石類を売却し、その資金で夫を支援しました。しかし、その努力も虚しく、1649年、チャールズ1世はピューリタン革命の露と消えることになります。

図7(左):1635年ごろ 狩場のチャールズ1世 アンソニー・ヴァン・ダイク画
図8(右):17世紀 チャールズ1世 ヘラルト・ファン・ホントホルストの工房

ところで、チャールズ1世は、パールピアスをいつも左耳に着けていました。くだけた装いの時も、敵に立ち向かう時も、そして、処刑台に登る時でさえ。
現代のファッションと比較すると、チャールズ1世のパールピアスは、特殊な装いのように見えるかもしれません。しかし、エリザベス1世の治世からしばらくの間、イングランドの紳士の間では、このようなピアスの装い方が流行していたそうです。片側の耳にピアスをすると、典雅で堂々とした歩き方に見えるとされたからだとか。
チャールズ1世は、幼い頃、うまく歩けず話せないという病気を患っていました。内向的に育った彼にとって、左耳のパールピアスは単なる流行ではなく、王として振る舞うための自信をつけさせてくれるお守りのようなものだったのかもしれません。

チャールズ1世の死後、数年経って遺族の手元に戻されたパールピアスは、現在もイングランド・ノッティンガムシャー州に伝わり、時折、展覧会などに展示されています。 また、チャールズ1世を救うためにヘンリエッタ・マリアが手放したジュエリーのうち、両親から結婚祝いとして贈られたパールイアリングは、ヘンリエッタ・マリアの甥であるルイ14世から恋人へと贈られた後、多くの人々の手を転々とし、1979年に競売にかけられたことによって現代人の目の前にその姿を現しました。それを目にした人々は、数百年もの時を超えたとは思えない美しい輝きに驚いたといいます。