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世界の歴史の中のネックレス

ネックレスが語る真の姿〜悲劇の王妃マリー・アントワネット〜

図1:マルティン・ファン・メイテンス画(部分)1767年

図1:マルティン・ファン・メイテンス画(部分)1767年

今回は18世紀後半、日本でもとりわけ知名度の高い王妃の一人であるマリー・アントワネットのお話です。
オーストリア・ハプスブルク家の皇女マリー・アントワネットは、14歳という若さでフランス宮廷に嫁ぎました。それまで敵対していたフランスとオーストリアの関係を同盟的かつ強固なものにするための、いわば政略結婚だったのです。若く美しく快活な王太子妃は、民衆には好意的に迎えられました。
当時、フランスにはロココと呼ばれるきらびやかな宮廷文化が花開いていました。それはヨーロッパ各国に大きな影響を及ぼし、フランスはモードの牽引役となっていたのです。宮廷の盛装は大きく開いた胸、リボンなどのたくさんの装飾、袖口の何段ものレース飾り、胴はコルセットで締め上げ、左右に大きく広がったスカートなどが特徴的です。この絵は結婚前に描かれたものですが、ロココの装いの典型的なスタイルが見られます。このようにパールネックレスは胸元にではなく、顎のすぐ下(いわゆるドッグカラー)の位置にリボンとともに着けたり、頭に留めたり、手首にブレスレットのように巻いたりしていました。

図2:ジャン・バティスト・ゴーティエ・ダゴティ画 1775年頃 図3:同左

図2:ジャン・バティスト・ゴーティエ・ダゴティ画 1775年頃
図3:同左

1774年に夫がルイ16世として即位すると、マリー・アントワネットはファッションリーダーとしてさまざまな新しいヘアスタイルやファッションを披露します。若い頃のマリー・アントワネットの肖像画にはネックレスをつけていないものが多く、王妃になって間もない頃の絵(図2、図3)ではネックレスは高く結い上げられた髪に巻き、首にはなにも着けていません。新進気鋭のお抱え美容師によるヘアスタイルは注目の的となり、時には外国との戦争の勝利を記念して戦艦の模型を髪の上に乗せた奇抜なスタイルまで大流行させました。

図4:ヨーゼフ・ハウツィンガー画(部分)1776年頃

図4:ヨーゼフ・ハウツィンガー画(部分)1776年頃

ハプスブルク家の弟のマクシミリアン・フランツ大公を宮殿に招いた時の様子を描いた絵には、喉元にぴったりの真珠のネックレスとイアリングを着けた、マリー・アントワネットとしては珍しい姿も残されていますが、この頃はひたすら高々と髪を飾ることに夢中になり、ネックレスをつけて胸元を飾ることには関心を持っていなかったようです。

自由な雰囲気のオーストリア宮廷とは異なり、フランスの宮廷はさまざまなしきたりに縛られていました。その窮屈さや外国人であるための孤独感、また子供がなかなかできなかったことなどから、マリー・アントワネットは衣装や賭けごと、芝居や仮面舞踏会などに夢中になりました。母親になってからは自然を愛で、落ち着いた暮らしを好むようになりましたが、それまでの7年の間に世間に与えた浪費家の印象はぬぐいがたいものがありました。
王宮の慣例や儀式を見直して簡素化をはかれば、それを拠り所にしていた貴族たちの反感を買い、田舎暮らしに憧れて簡素なドレスに身を包めばはしたないと言われ、何もかもが裏目に出ました。

図5(左)、図6(右):エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画(いずれも部分)1783年

図5(左)、図6(右):エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画(いずれも部分)1783年

右にご紹介する2枚の絵は同じポーズですが、麦わら帽にモスリンのドレスの姿が王家の威厳をおとしめるものと非難されたために盛装姿に描き直されたのが右の絵です。2連の真珠のネックレスと3連のブレスレットを両腕につけ、眉も細く整えて描かれています。現代ではアントワネットを紹介する時右の絵が使われることが多いようですが、アントワネット自身はナチュラルな雰囲気の左の絵を気に入っていたのではないでしょうか。

図7:首飾り事件のネックレスのデザインと呼ばれるもの。個人蔵

図7:首飾り事件のネックレスのデザインと呼ばれるもの。個人蔵

フランスはルイ14世・ルイ15世と続いた絶対王政の中、たびたびの対外戦争による軍事費の膨張を国民の重税で補うという状況で、ルイ16世が即位した頃は既に財政は破綻していました。そんな中、1785年に有名な「首飾り事件」が起こります。注文主のルイ15世が亡くなり行き場を失っていたネックレスを巡って起きた、マリー・アントワネットの名を騙った、本人とは何の関係もない詐欺事件でしたが、国民は彼女が関わっているのではと疑いを抱き、重税にあえぐのは全て彼女の浪費のせいだと考えるようになったのです。この事件は革命の一因ともいわれるほど国王夫妻のイメージを決定的に傷つけることになりました。

その首飾りはデザイン画で見ることができますが、首回りに近い内側には17個の大ぶりなダイアモンドが並び、そこから3本の花綱とペンダントが下がっています。外側のネックレスは2列のダイアモンドにタッセルを付けた豪華なものでした。当時のジュエリーのトレンドのスタイルがうかがえるデザインといえるでしょう。しかしマリー・アントワネットですら「高すぎる」と言って購入を断ったそうですから、現存していたらどれほどのまばゆい光を放ったでしょうか。

図8:アレクサンドル・クシャルスキ画 1790〜1791年

図8:アレクサンドル・クシャルスキ画 1790〜1791年

そしてついに1789年、革命の火ぶたが切られ、ルイ16世一家は囚われの身となってしまいます。革命後はファッションも一変し、シンプルな装いが流行しました。幽閉中とはいえ王妃は常に流行に敏感で、一見地味に見えても流行のドレスを身に着けていたのです。そんな装いに一段と映えたのは、髪と胸元につけた大粒の真珠です。もちろん彼女はその身分にふさわしく多くの宝石を持っていたはずですが、当時の肖像画に残っているネックレスは真珠ばかり。肖像画は自分をこう見せたいという意図で描かれるものでもありますから、真珠のもつ気品と清らかなイメージに自分をなぞらえていたのかもしれません。
マリー・アントワネットは1793年に処刑されその波乱に満ちた生涯を閉じますが、真珠のネックレスをまとった晩年の姿からは、苦境に立たされてもなおフランス王妃としての誇りを失わなかった気高さが感じられます。