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世界の歴史の中のネックレス

ネックレスに託した純愛〜ルイ14世とマリー・マンシーニ〜

ルイ14世(1638-1715)といえば17世紀のフランスにおいて70年以上にわたって君臨した国王であり、ヴェルサイユ宮殿を建設し、絶対王政を確立したことで有名です。また、戦争を繰り返す一方でバレエを愛し、文化や芸術を手厚く保護した文武両道の王としても知られています。
しかし、彼に近しい人々の中には 「もし “彼女” の存在がなければ、ルイ14世はただの粗野な男で終わっただろう」 と言う者もいたのです。

図1:マリー・マンシーニの肖像 1665年ごろ ジェイコブ・フェルディナンド・フート画 From Wikipedia

図1:マリー・マンシーニの肖像 1665年ごろ ジェイコブ・フェルディナンド・フート画 From Wikipedia

その “彼女” とは、この絵の女性、マリー・マンシーニ(1639-1715)です。
日本ではあまり知られていませんが、ルイ14世の教養や見識に影響を与え、彼が初めて結婚を熱望した相手として、特にフランスでは重要な人物とされています。

この絵は26歳前後のものでしょうか。
しっかり見開いた瞳と軽く結んだ唇の表情から、知性に優れ、意志が強かったというマリーの魅力が伝わって来るようです。

縦ロールのツインテールに短い巻き毛を重ねた “ウルリュベルリュ(hurluberlu)” という髪型や、パールネックレスを大きな襟あきのドレスに合わせるスタイルは、バロック時代後期の流行です。
この絵のマリーの装いは、ネックレスとボートネックのライン、そしてヴェネチアンレースのボリューム感とのバランスがとても上品で、ギャランと呼ばれたリボンの束飾りとドレスの色合わせがシックです。こうした組み合わせは、今の私たちにもコーディネートの参考になりそうですね。

ところで、マリーがつけているパールネックレスは、実はとても特別なもの。そこにはルイ14世とマリーの愛の物語が秘められているのです。

ローマの男爵家に生まれたマリーがフランスに渡ったのは、この絵が描かれる十数年前の1653年のことで、マリーはまだ13歳でした。その旅を命じたのはマリーの伯父、ジュール・マザラン枢機卿でした。
フランス王室で宰相をつとめていたマザランは、イタリア貴族に嫁がせた2人の妹の子供たちを次々とフランス宮廷(※1)に呼び寄せ、同じ年頃の国王の遊び相手をつとめさせました。さらに彼らを有力者と結婚させ、その縁によって自分の地位を固めようとしていたのです。

  • ※1 この頃のヨーロッパの宮廷は、王が国を掌握するため、国内の複数の宮殿を王が巡回する “移動宮廷” でした。

摂政でもあった王太后アンヌ・ドートリッシュはこの子供たちを気に入り、中でも娘たちに “マザリネット” という愛称をつけてかわいがりました。
当時の美人の基準と言えば、 “金髪碧眼、バラ色の肌でふくよか” というものでしたから、茶色の髪と瞳、細い手足を持っていたマリーは、全く当てはまりません。しかし彼女は乗馬をこなし、文学をこよなく愛する少女で、宮廷人たちに言わせると “風変わりな魅力” があったようです。文学作品をラテン語やギリシャ語で朗読するのが得意で、歌も上手。また、その声はソフトで温かく、聴く者を魅了したとか。アンヌ・ドートリッシュもルイ14世も、彼女の朗読を心待ちにしたと言います。

1658年の夏、誰もが予想していなかったことが起きました。
“砂丘の戦い” と呼ばれる戦争に出陣していたルイ14世が、重い病に罹ったのです。
どんな手当てを施しても下がらない高熱が何週間も続き、とうとう臨終の儀式が執り行われるまでになってしまいます。
宮廷人たちがルイに見切りをつけて、次の王と目される王弟のもとに早々と集まり始めた頃、瀕死のルイの耳に、すすり泣く声が届きました。熱に浮かされたルイの目がとらえたのは、たったひとりで自分を看病していたマリー・マンシーニの、涙に濡れた顔でした。
奇跡的に死の淵から生還したルイは、この日を境にマリーを愛し始めます。

図2:ルイ14世の肖像 1661年 シャルル・ル・ブラン画 From Wikipedia

図2:ルイ14世の肖像 1661年 シャルル・ル・ブラン画 From Wikipedia

それまでのルイが関心を持っていたのは、ほぼ、戦争とバレエだけ。火遊びの相手には事欠かなかったのですが、真剣に愛した女性はマリーが初めてでした。
マリーと会えば心がときめき、マリーと語らえば文学や芸術を通して未知の世界を知ることができます。一度知ってしまえば、もう知らない頃には戻れません。一説には読み書きもできないと言われるほど勉強嫌いだったはずのルイが、マリーを愛し始めてからは懸命に学問に取り組み始めたそうです。さらに彼女の励ましによって王としての威厳に目覚め、それまで頭が上がらなかった摂政や宰相に対しても、自分の意志をはっきりと述べるようになったと言います。

いつしかルイは自分の人生にマリーが絶対に必要だと感じるようになり、ついには結婚を決意します。
けれどもルイはフランスの国王。王族にとっての婚姻は政治の大事な切り札ですから、若い恋人たちの心のままに決められるものではありません。
マザランは、20年以上続くスペインとの戦争を終わらせるため、ルイとスペイン王女を結婚させようとしており、それは母后の願いでもありました。しかしどれほど説得されてもマリーとの結婚をあきらめられないルイは、数ヶ月にわたってあの手この手で母とマザランに抵抗し続けます。

困ったマザランは、とうとう、自分の姪をパリから400km以上離れたブルアージュに移し、物理的に引き離すという強硬手段に出ました。さらに、ローマの貴族にマリーを嫁がせる縁談をまとめ、別離を決定的なものにしてしまいました。

心の底からマリーを愛していたルイは、せめて、この辛い別れを慰める贈り物をしたいと考えます。それは、ルイの叔母でイギリスの王妃であったヘンリエッタ=マリア・オブ・フランスの真珠のネックレスでした。
ほんの少し前まで、ルイはそれを婚約記念品としてマリーに贈りたいと思っていました。かつてヘンリエッタ=マリアがそのネックレスを身に着けて宮廷に現れた時、マリーがそれを賛美したことを覚えていたからです。
その叔母がジュエリーを少しずつ売っては必要な費用にあてていることを知っていたルイは、当時の価格にして2万8000リーヴル(※2)もの値がついていたそれを買い取らせ、マリーのもとに届けるよう、マザランに命じたのです。

  • ※2 現代の生活水準に正確に当てはめることはできませんが、およそ5000〜6000万円に相当するのではないかと考えられます。
図3:マリー・マンシーニの肖像 1660年ごろ ピエール・ミニャール画 From Wikipedia

図3:マリー・マンシーニの肖像 1660年ごろ ピエール・ミニャール画 From Wikipedia

マリーと別れ、1660年にスペイン王女と結婚したルイは、マザランが亡くなった後は宰相を置かず、自分がすべてを決める親政を開始します。そしてヴェルサイユ宮殿の建設や戯曲の発表など、後世のフランスの芸術にとっても重要な施策を、次々に実現して行くことになります。
芸術家たちと意見を交わす時、そして完成した建築や作品に触れる時、ルイはマリーの姿を心に思い浮かべていたのではないでしょうか。

図4:マリー・マンシーニ(マリア・マンチーニ・コロンナ)の肖像 17世紀 ガスパル・ネッチェル画 From Christie’s catalog in 1969

図4:マリー・マンシーニ(マリア・マンチーニ・コロンナ)の肖像 17世紀 ガスパル・ネッチェル画 From Christie’s catalog in 1969

一方、ローマの大貴族、コロンナ家の王子(※3)の妻となったマリーは、結婚に際し、自由に使える財産として5万リーヴルの現金と総計13万6000リーヴルの宝石(その中に例のネックレスも含まれます)を持参したという記録があります。

  • ※3 コロンナ家はイタリアのパリアーノの領主で、夫は王子の称号を持っていました。

美しいコロンナ宮殿での裕福な暮らし。プリンセスと呼ばれ、3人の王子をもうけたマリーでしたが、結婚生活は決して幸せなものではなかったようです。
ある日、夫に殺されるという危機感を抱いたマリーはコロンナ宮殿から逃げ出し、その後25年間にもわたってヨーロッパ中を逃避行するという数奇な人生を送ることになります。
マリー自身が執筆した回想録によると、宮殿を出る時に彼女が真っ先に手に取ったのは 「私の真珠!」、つまりルイから贈られた、あのネックレスでした。

1715年に亡くなったマリーの遺産目録に記載されたジュエリーは、 “フランス国王の名のもとにマザラン枢機卿によって与えられた” と書かれた35粒の真珠のネックレスと、わずか数点のコロンナ家のジュエリーだけだったそうです。
亡命の旅で財産を使い果たし、ほとんどの宝石を売り払っても、マリーはルイから贈られたネックレスだけは手放さず大事にしていたことがわかります。

ひょっとするとマリーはルイとの夢の日々をネックレスに投影していたのかもしれません。
しかし、たとえ現実の世界では結ばれなくても、マリーとルイの愛は、ルイが打ち立てた宮廷文化や様式の中に確かに花開き、実を結びました。そしてそれは私たちが目にするフランスの魅力の中に、今もなお脈々と生き続けているのです。