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ミキモトスタイル

創業当時から宝飾におけるデザインの重要性を認めた御木本幸吉は、研究員を欧米に派遣し、西洋風のデザインと伝統的な製作技術を研究させました。彼らが持ち帰った資料や宝飾品の実物をもとに、ジュエリーデザイナー達は最先端の洋風デザインをマスターし、日本における本格的な近代ジュエリーの製作がスタートしました。
幸吉は、装身具製作にあたって独自のスタイルを生み出すことに努め、大正を経て昭和に入ると、真珠を使い日本古来の伝統的なモチーフをアレンジした豊かな感性に彩られたデザインと、日本の伝統的な錺職(かざりしょく)の技とヨーロッパの製作技術が巧みに融合した「ミキモトスタイル」と言われる独自のデザイン様式が確立されたのです。

ミキモトスタイルを象徴するジュエリー ― 帯留「矢車」

1937年(昭和12年)のパリ万博に出品された帯留「矢車」。帯留のほかブローチやリングなど部品の組合せにより、12通りに使うことができる多機能ジュエリーで、「カリブル留め」や「ミル打ち」という細工が施されています。独創的で格調の高いデザインと卓越した細工技術を駆使した、昭和初期を代表するミキモトスタイルの頂点を極めたジュエリーです。(真珠博物館蔵)

ミキモトスタイル確立までの軌跡―カタログ「真珠」

1908年(明治41年)に創刊され、1938年(昭和13年)まで刊行された商品カタログ、「真珠」。創刊当時より、ジュエリーデザインの重要性に注目していたことがうかがえます。掲載されたデザイン画からは、それぞれの年代におけるミキモトのジュエリーデザインの変遷が見られ、貴重な資料として保管されています。

ミキモトスタイルを引き継ぐデザイナーたち

ヨーロッパから持ち帰った経験と資料をもとに、1907(明治40)年に図案室を新設し、ミキモトのデザイナーたちは日本と西洋のデザインを融合したジュエリーを製作し始めました。そして確立されたミキモトスタイルは、創業から120年以上たった今でもデザイナーたちに引き継がれています。

デザインは社内に在籍している20名弱のデザイナーによって描き起こされています。各テーマごとに何十枚ものラフ画が描かれ、その中からわずか数点が選ばれます。清書は面相筆という極細の絵筆と墨を使って描かれ、水彩絵の具や色鉛筆で着彩し陰影まで表現します。立体感まで表現されたこのデザイン画をもとに、装身具工場のクラフツマンと打ち合せを重ね、ジュエリーは形作られていきます。

クラフツマンによる細工技術

1907年(明治40年)、御木本真珠店初の専属工場として御木本金細工工場(現・ミキモト装身具)が開設されました。
当時の日本の装身具は、指輪・帯留・髪飾り等が代表的なもので、多品種を製作できる総合工場はまれであり、また西洋風のデザインを取り入れたジュエリーを製作できる工場はありませんでした。
御木本金細工工場では、創業当時から欧米のデザインや製作技術を導入し、業界に先駆けて斬新な真珠製品を製作しました。大正から昭和にかけて「ミキモトスタイル」が確立されると細工技術が急速に高度化して、熟達したクラフツマンが増え、ミル打ちやケシ定め、透かし彫りなど繊細な技術を駆使し、欧米に匹敵するジュエリーを製作するようになりました。これらの技術は、クラフツマンの誇りとともに現在へ脈々と受け継がれています。