
作家・原田 マハさんがMIKIMOTOのために
書き下ろした連載です。
ここでしか出会えない
真珠にまつわるエッセイや
ストーリーをお楽しみください。
Vol.6
ユーレイカ
装いたいように装い、
生きたいように生きることの
美しさを描く、極上の掌編。
ベスはいつもたくさんの友人に囲まれ、ハンサムなボーイフレンドまでいた。
彼女に憧れた私は、教室の片隅でスタイル画をノートに写し取るようになる。
前編
その頃、二十歳だった私には、憧れの友人がいた。
もうずいぶんまえのことだから、いまとなっては彼女のちゃんとした名前を思い出すことができないのだが、ベス、とみんなに呼ばれていた。垢抜けた雰囲気で、それはもうおしゃれな女の子だったから、外国風の呼び名はとても似合っていた。
ベスが身につけていたもののひとつひとつ──カーディガンの質感、シルクのスカーフの色、手袋、靴、バッグやそこから取り出す手帳やハンカチの類い、耳たぶのぎりぎりのきわに留まっていた真珠のピアス、髪留めなど、細部に至るまで覚えている。笑うと頬に現れる健康的なえくぼ、くっきりとアイブローで形作った太い眉毛、肩にかかる長さの柔らかそうな髪なども。
講義が始まる時間、早めに教室へ出向いて、いちばん後ろの席に陣取った私は、ベスが現れるのを心ひそかに待ち構えた。絵を描くのが得意だった私は──とはいえ、美大に行くほどの技量があったわけじゃない──、彼女が現れると、その日のルックをノートに写し取った。
いつもさりげなくスタイルがきまっている。それが私の感嘆の的であった。ベスのクローゼットの中はどうなっているんだろう。どんなふうにその日のコーディネイトをきめるんだろう。きめようとしてきめてる感じじゃなく、彼女の選ぶものすべてに彼女という人の佳き性質が表れるのに違いない。それは何かといえば、若いけれどある種の「クラス」感があり、格好つけているわけでもないのに格好がいい、ということなのだ。
うらやましかった。そんなふうに誰か──私──に思われている彼女。私には逆立ちしたってできっこない。
私はとある地方都市に生まれ育った。実家は小さな商店を細々と営んでいたが、経済的にはいつも苦しかった。それでも両親は私の望み通り、東京の大学へ送り出してくれた。ほぼ仕送りもなく、自力で生活するほかなかった私は、アルバイトをいくつも掛け持ちしてどうにか大学生活をやりくりしていた。
友だちは皆、絵に描いたような「キャンパスライフ」を過ごして華やいでいた。私はといえば、友人たちがテニスサークルの合宿やコンパで盛り上がったり、サーフィンやスキーに出かけたり、ロサンゼルスのホストファミリーのもとでホームステイしたりするのを横目に、食堂で配膳したり、医院の受付をしたり、スーパーでお菓子のデモンストレーション販売をしたり、大学生なんだかフリーターなんだかわからないような毎日を送っていた。
そんな私だったので、ベスとの接点は皆無だった。彼女はいつもたくさんの友人たちに囲まれていた。その上、スラリと背が高くて優しそうでハンサムなボーイフレンドまでいた。ベスの彼氏、昨日正門のとこに車停めて出てくるの待ってたんだよ、と友だちが噂しているのが聞こえてきた。見た見た、外車でしょ? イタリアの赤いスポーツカー。かっこいいよねえ。
バイト先から電車に乗って下宿のアパートに帰る道すがら、私はイタリアの赤いスポーツカーってどう考えてもベスには似合わないよなあ、と考えた。私の中では、ベスのボーイフレンドは「カブトムシ」の異名を持ったドイツのちっこくてかわいい車に乗っているべきだったから。
それからしばらくして、あの彼氏ベスにフラれたみたいよ、という噂が聞こえてきたので、ほらやっぱりね、と私はこっそりほくそ笑んだりした。
私が憧れていることなど、ベスが知ろうはずもなかった。それでも別によかった。彼女には彼女の、私には私の毎日があり、それは交錯しないと決まっているものだったから。
二十歳という年齢は私にはなんの福音ももたらさなかった。無限の可能性にワクワクするなんてことは別になく、むしろ漠然と未来がやってくる感じ。
未来の私はどこにいるのだろう。何をしているのだろう。それでも生きている限り、明日がやってくる。それ自体は、まあ別に悪いことじゃない。そんなふうに思っていた。
原田 マハ
1962 年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒業。伊藤忠商事株式会社、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館への派遣を経て、2002年フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。2005年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞し、2006年作家デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞。