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あの日のエール

作家・原田 マハさんがMIKIMOTOのために
書き下ろした連載です。
ここでしか出会えない
真珠にまつわるエッセイや
ストーリーをお楽しみください。

Vol.7

あの日のエール

いつもあなたと一緒にいる。
忘れないでね、モナンジュ。

七十歳になったのを機に単身パリへ移住した祖母が、
久しぶりに帰ってきた。
杏樹は愛する祖母を空港まで迎えにいく。

前編

羽田空港国際線ターミナルの到着口に、花束を持って出迎えにいくなんて、生まれて初めてのことだった。

母に、車で迎えに行ってほしいと言われたんだけど、言われなくてもそうするつもりだった。だって、私の大好きな祖母、タマヨさんがパリから帰ってくるんだもの。

年始に自宅のアパルトマンで何かの拍子に転んで、膝をひどく打ってしまったとかで緊急入院。母があわててパリへすっ飛んでいった。2週間の入院を余儀なくされ、リハビリに励んだものの、ついに杖に頼らざるを得なくなったとか。

退院直後のビデオコールではさすがにちょっと意気消沈していた。だけど、こうも言っていた。──でもねえ。そのおかげで、いいこともあったのよ。リハビリのスタッフがとってもやさしくてハンサムだったの。あなた、知ってる? 人間万事塞翁が馬、といってね。フランス語で言い換えると、そうね……Il y a de mauvaises choses, mais il y a aussi de bonnes choses, c’est la vie.……ってことかしら?

悪いこともいいこともある。それが人生ってものだ──なんてフランス語をさらりとスクリーン越しに言ってのける、それがタマヨさん、八十五歳なのである。

到着口のドアが開いて、真っ先にタマヨさんが登場した。私がタマヨさんをみつけるのとほぼ同時に、タマヨさんは私をみつけて、

「──杏樹(あんじゅ)!」

私の名前を呼んだ。その瞬間、はっとした。車椅子に乗せられ、女性のアテンダントに付き添われていたのである。きれいに整えたショートカットの白髪、真っ赤な口紅。目も覚めるような赤いセーターに、いかなる時も彼女の衿もとを飾っている真珠のネックレスを着けて。

「白バラの花束に歓迎されるなんて。ケガも悪くないわね」

私に手渡された花束に顔をうずめて、タマヨさんはそう言った。歩けないわけではないのだが、杖をついての歩行は時間がかかるので、手っ取り早く車椅子に乗せてもらった。そうしたら楽ちんな上に真っ先に出てこられるでしょ? と。さすがである。

ピックアップポイントでアテンダントと一緒に待っていてもらい、車を回した。手伝ってもらいつつ助手席に乗り込んだタマヨさん、アテンダントにひと言。

「ご親切にありがとうございます。あなた、嫌な顔ひとつなさらず、ステキだったわ」

そうそう、これこれ。最高に人たらしな我が祖母の真骨頂。お世辞は言わない、でも本当にステキだと思ったことはちゃんと口にして伝える。タマヨさんのさりげないひと言に、誰だって笑みをこぼさずにはいられない。

「さて。家にたどり着くまでに、あなたに言っておきたいことがあるのよ、モナンジュ」

走り出してすぐ、タマヨさんが切り出した。タマヨさんは私に大切なことを話そうとするとき、親しみを込めて「私の天使(モナンジュ)」と呼びかけるのが常だった。「私の(モン)」「杏樹」、「モナンジュ」。そう呼びたくて私が生まれたときに名付け親(ゴッドマザー)を買って出たんだと聞かされたっけ。

到着早々、言っておきたいことがあるって……もしかして、入院してたときに母と話し合ったのかな? パリの自宅を引き払って、ようやく完全帰国する気になってくれたのだろうか?

七十歳になったのを機に、タマヨさんが単身でパリへ移住してから十五年が経っていた。当時十歳だった私は、大好きな祖母が遠くへ行ってしまうのをどうしても認めたくなくて、泣いて、すがって、ずっとぐずぐずしていた。そんな私に、タマヨさんはこう言った。

──誰にでも夢がある。私にだって夢があるのよ。それをかなえるためにパリへ行くの。あなたはまだ若くてたっぷり時間があるでしょう。うらやましいわ。でもね、私は七十歳なの。あなたの七倍も生きてきたから、あなたよりずっと時間がないの。まだ元気なうちに夢をかなえたいのよ。わかるでしょう? モナンジュ。

でもね。タマヨさんの夢はかなわない、もう遅いよって、もしあなたが言うんなら、それを受け入れるわ。だってあなたは私の天使だもの。

さあ、それがあなたの本当の気持ちなら、どうぞ私に言ってちょうだい。タマヨさん、もう遅いよ! って。

タマヨさんはほんとうに賢くてずるい人だった。だって、もう遅いよ! なんて言えるはずがないもの。夢に向かって飛び立とうとしているタマヨさんをくじくことなんてできっこないもの。

けれど私だってタマヨさんの血を引く子供、負けないくらい賢くてずるかった。泣きじゃくりながら私は言った。

──遅くなんかない。夢をかなえて、タマヨさん、絶対に!

でもね、お願い、夢をかなえたら帰ってくるって、約束してほしい。約束は破るためにするんじゃなくて、守るためにするものだって、タマヨさん、教えてくれたよね?

だから絶対絶対帰ってきて、約束だよ!

タマヨさんは、目に涙をいっぱいに溜めて、ありがとう、モナンジュ、大好きよ──と、私をきゅっと抱きしめてくれた。おでこに真珠のネックレスが当たるなめらかな感触を、いまでもありありと思い出せる。

だけど、やっぱりタマヨさんは賢くてずるい人だった。あのとき、私をやさしく抱きしめながら、「約束する」のひと言を決して言わなかったのだから。

中編へ続く

原田 マハ

1962 年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒業。伊藤忠商事株式会社、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館への派遣を経て、2002年フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。2005年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞し、2006年作家デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞。

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