作家・原田 マハさんがMIKIMOTOのために
書き下ろした連載です。
ここでしか出会えない
真珠にまつわるエッセイや
ストーリーをお楽しみください。
Vol.8
いつか、相合傘で
雨がそぼ降るパリの街角。
紗里は、絵の前で
完全に動きを止めていた。
娘の紗里と二人、赴任先のシカゴに移り住んで四か月。
なんとなく元気のない紗里に、私は美術館に行くことを提案する。
前編
シカゴに移り住んで初めての冬がやってきた。
思い切り見上げてもてっぺんの星飾りが見えないほど大きなクリスマス・ツリー、マグニフィセント・マイルを照らし出すきらびやかなイルミネーション、ショー・ウィンドウに躍る〈ハッピー・ホリデイズ〉の文字。街中が輝いて、道ゆく人々の表情もどことなく華やいでいるような。
ミシガン湖のほとりにあるミレニアム・パークでは、十一月下旬にクリスマス・ツリーの点灯式がある。それはシカゴっ子ご自慢の全米一早い点灯式だ。
シカゴといえば極寒の冬、だけどあのツリーの点灯式を見たら、どんな寒さも吹っ飛んじゃうくらいの感激なんだからと、それを目当てに真冬のシカゴに遊びにいったことがある友人に、渡航前に聞かされていた。ニューヨークやボストンやサンフランシスコには出張で行ったことがあったけど、シカゴ未体験の私は戦々恐々。だって真冬にはマイナス二十度になることだってあるらしいから。
「シカゴっていうところにはね、クリスマスに大きなツリーが見られるんだよ。いっぱいのお星さまが落ちてきたみたいに、キラキラキラーって光るんだよ」
娘の紗里は七歳になったばかり。シカゴ移住が決まって、どんなところ? と興味津々だったので、そう教えてあげたら、どうにも待ちきれなくなったようで、
「ねえママ、あとなんにち? ねえ、シカゴに行くまであとなんにち?」
朝から夜まで問い詰められるはめになってしまった。
すぐに大きくなるんだから、ちょっと大きめのやつを選んだわと、母が買ってくれたぶかぶかの赤いムートンのコートがうれしくてたまらず、真夏の盛りにそれを着込んで、
「ねえあたし、アンナみたい? 〈アンナの赤いオーバー〉のアンナみたい?」
お気に入りの絵本の主人公になりきって、くるくる、くるっとなんべんも回って、ひっくり返って尻餅をついて、転んじゃったあ、と笑っていた。ちょっとまえまでは転んだってなんだって、すぐにべそをかいていたくせに、「あたしもう赤ちゃんじゃないんだから」なんて、生意気を言っていた。
夫と私はそれぞれに異なった外資系企業に勤めていたのだが、私の方に海外赴任の辞令が出た。小学一年生の娘を夫に任せて単身赴任──は、ちょっと考えられない。とはいえ、夫も勤め人だから家族全員で移住というわけにもいかない。さて、どうしたものか。
「女性管理職」の私は、「管理職」に「女性」をつけずに済む未来のためによき前例を作ろうと、しゃにむに頑張っているところだった。夫はそんな私の奮闘ぶりをよくわかっていた。私に相談されるやいなや、彼はすぐに、行っておいでよ、と言った。
「紗里を連れて行っておいで。僕もときどき、様子を見にいくから」
あまりにもあっさりと背中を押されて、私は拍子抜けしてしまった。
「いいの?」
「いいよ」
夫は平然としている。私のほうが狼狽してしまった。
「どうして? あなたひとりになっちゃうよ? 紗里を連れていっちゃっていいの?」
「うん。いいよ」夫はもう一度言った。
「君自身のためばかりじゃない。紗里のためにも、君は赴任するべきだよ。何ひとつあきらめずにやり抜いて、カッコいいとこ娘に見せてやってくれよ」
思いがけない夫のアドヴァイスは、力強いエールになって私の胸に届いた。
不覚にも涙が込み上げてしまった。思わず夫に抱きつきそうになるのを私はぐっとこらえた。だって、抱きしめられてやさしく背中をなでられたりしたら、やっぱり行かない、家族で一緒にいたい、と弱音を吐いてしまいそうだったから。
何ひとつあきらめずにやり抜く。──確かにそうできたらカッコいい。でも、できるだろうか。
私はべつだん完璧主義者じゃない。なまじ負けん気は強いけど、仕事でも育児でも弱音を吐きたくなることはたびたびあった。なんでこうなるの、なんで私ばっかり大変なの? と。
……カッコいいとこ、娘に見せてやれるだろうか?
中編へ続く
原田 マハ
1962 年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒業。伊藤忠商事株式会社、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館への派遣を経て、2002年フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。2005年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞し、2006年作家デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞。

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