Skip to Main content
    お気に入りリストは空です。

Please select a location and what language you would like to see the website in.

VISIT SITE
小説 いつか、相合傘で

作家・原田 マハさんがMIKIMOTOのために
書き下ろした連載です。
ここでしか出会えない
真珠にまつわるエッセイや
ストーリーをお楽しみください。

Vol.8

いつか、相合傘で

雨がそぼ降るパリの街角。
紗里は、絵の前で
完全に動きを止めていた。

娘の紗里と二人、赴任先のシカゴに移り住んで四か月。
なんとなく元気のない紗里に、私は美術館に行くことを提案する。

夏の終わりに私と紗里はシカゴへとやってきた。

紗里はエレメンタリー・スクールのグレード1に入学した。幼稚園児のときから英語を学んではきたけれど、実際にネイティブしかいない環境で孤立したりしないだろうか?

通学初日は稚魚を大河に放流する気分だった。紗里は少々緊張の面持ちだったが、別れぎわには私に手を振って、先生とともに教室へ入っていった。

母の心配をよそに、娘はすいすいと流れに乗って、すぐに学校に馴染んだようだった。英語も驚くべきスピードで自分のものにしていった。そういえば、と私は自分の子供時代を思い返した。父の赴任先のロンドンへ家族ぐるみで移住したのは小学校三年生のとき。最初はもじもじしていたが、ほどなくクラスメイトの輪の中に溶け込むことができたじゃないか。

──そうだ。そうなのだ。子供は親が心配するほど弱くない。ましてや紗里はちょっとやそっとのことでくじけるほどヤワな女の子じゃないはずだ。

だって、私の娘だもの。

こうして娘と私のシカゴ生活が始まった。

クリスマスを一週間後に控えた週末、私は紗里と一緒にツリー見物のためにミレニアム・パークへ出かけた。

アメリカへ移住してまもなく四か月──紗里は、心も体もたった四か月で見違えるほど成長したように感じられた。澄んだ目を縁取る長いまつ毛、マシュマロのように滑らかな頬は薔薇色で、ふと見た瞬間にどきりとするほどの美少女ぶりだ。なんて可愛いんだろう。この子、ほんとうに私の娘かな? と、疑ってしまうほど。

『そういうのを親バカって言うんだよ』と、ビデオ・コールで画面の向こうの夫に笑われてしまったが。

ところが、クリスマスが近づくにつれ、紗里はなんとなく元気がないように見えた。落ち込んでいるわけではないのだろうが、ずっと何かを考え込んでいるような。

ミレニアム・パークの遊歩道を、赤いコート姿の紗里は私のちょっと先をうつむいて歩いていた。待ちに待ったクリスマスがもうすぐやってくる。子供らしく一目散にツリーめがけて駆けていったっていい。それなのに紗里は、ずっとうつむいたまま、自分のつま先が右、左、右、左と規則正しく出たり引っ込んだりするのをみつめているようだった。

夏にはぶかぶかだった赤いコートが、ほんの四か月で彼女の体にしっくり添っているように見える。子供の成長って、ほんとうにいつのまにか、ぐんと進むものなのだ。

日常的に気がつかないけれど、たとえば一週間ほどでも旅行に出かけていた子供が帰ってくると、びっくりするほど成長している、ということは実際にある。特に紗里は、アメリカの学校に通うようになり、授業や友人たちとの交流を通して日々成長しているのだ。私のほうがどうやら彼女の成長のスピードに追いついていないのかもしれない。

ツリーのある広場に近づくにつれ、混雑が増してきた。紗里はうつむいた顔を上げようとせず、どんどん先へと行ってしまう。赤いコートが人混みに隠れてしまいそうになって、私は声を張り上げた。

「──紗里!」

はぐれそうになる娘の手をつかんで止めた。紗里は驚いたような瞳で私を見上げた。私ははっとした。

──心がどこかにいってしまっている?

「行こう」

私はそう言って、紗里の手を引き、いま来た道を引き返した。紗里は黙って私についてきた。

おりしも粉雪がちらつき始めた。湖から吹きくる風が鋭利なナイフのように冷たく頬に切りつけてくる。このまま帰ろうかとも思ったが、紗里がすっかり黙りこくってしまっているのが気になった。私は立ち止まると、

「ねえ。美術館に行ってみようか?」

誘ってみた。紗里は瞳を上げて、こくりとうなずいた。

すぐ近くにこの街を代表する美術館、シカゴ・アート・インスティテュートがあった。シカゴに来てすぐ、紗里を連れて行ったのだが、紗里はアートの森に遊ぶ子鹿のように、広い館内をのびのびと回って楽しんでいた。それが彼女にとっての本格的な美術館デビューだったのだが、すっかりお気に入りの場所になったようだった。

クリスマスまえの週末ということもあり、館内は多くの人でにぎわっていた。寒い季節に美術館は常春の楽園と化すのだと、この街の人は知っているようだ。

私たちにとってはこれで二度目の訪問だったが、展示室に入ると、紗里はこの場所がお気に入りだったことを思い出したのか、うつむけていた顔を上げ、名画の数々を眺めて回った。私は格別、どの作品について説明するでもなく、彼女が自由に絵の世界に遊ぶのを見守っていた。

ふと、紗里がいちまいの絵の前で足を止めた。

後編へつづく

原田 マハ

1962 年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒業。伊藤忠商事株式会社、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館への派遣を経て、2002年フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。2005年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞し、2006年作家デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞。

Vol.6 ユーレイカ

Vol.6
ユーレイカ

Vol.6を読む
Vol.7 あの日のエール

Vol.7
あの日のエール

Vol.7を読む