作家・原田 マハさんがMIKIMOTOのために
書き下ろした連載です。
ここでしか出会えない
真珠にまつわるエッセイや
ストーリーをお楽しみください。
原田 マハ
1962年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒業。伊藤忠商事株式会社、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館への派遣を経て、2002年フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。2005年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞し、2006年作家デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞。
原田マハ meets 中里唯馬
パリで出会ったMIKIMOTOの新たな輝き
初夏のパリで開催された日本人クチュールデザイナーYUIMA NAKAZATOのコレクション。作家 原田マハがそこで目にしたのはMIKIMOTOとYUIMA NAKAZATOの二つが共鳴する情熱のクリエイションだった。
作家・原田 マハさんの連載がスタートします。
ここでしか出会えない
真珠にまつわるエッセイやストーリーをお楽しみください。
Vol.1
すべてが円くなるように
人生で初めて自分で自分のために選んだジュエリー、それがMIKIMOTOのパールネックレスだった。いまから11年前のことである。
ハイジュエリーには縁のない人生を送ってきた。が、当然、憧れはあった。
一度でいいから目もくらむような宝石を身に纏ってみたい……というようなことではない。シンプルで、さりげなく、品格を持ったジュエリーを、ひとつだけ。
いつの日か、そんなふうに装うことができる大人になりたいと思っていた。
理想の装いにふさわしい一点は、なんといっても真珠のネックレスだった。「粒揃い」という言葉通りの、まろやかな輝きの一連を首もとに飾ってみたい。
手頃な価格のものであれば気軽に手に入れられるだろうけれど、私にとってパールネックレスというのはそういうものではなかった。
あちらをこちらに合わせるのではなく、こちらがあちらにふさわしい人にならなければいけない。だから、そうなれるように自分を磨き、人生を豊かに生きていきたい。そう思っていた。
そして、その時がついに訪れた。
2012年、20歳の頃から胸にあたため続けてきたアイデアを物語に綴った長編小説「楽園のカンヴァス」で、山本周五郎文学賞をいただいた。
気がつけば私は50歳になっていた。夢をあきらめずにここまできた、だから自分で自分に記念品を贈ろうと考えた。
それにふさわしいものは、MIKIMOTOのパールネックレス以外なかった。
5月のよく晴れた日の午後、私は銀座にあるMIKIMOTO本店のドアを開けた。あの瞬間の胸の高鳴りと誇らしさは、いまでもはっきりとよみがえる。
スタッフの方に「パールネックレスが欲しいのですが」と、迷わずに伝えたと思う。それから小一時間ほど、スタッフのアドバイスに耳を傾け、いくつかのネックレスを試着して、ひとつづきのネックレスを買った。
海色のケースに収められたネックレスを見つめて、心の中で「ようこそ」とつぶやいた。
ようこそ、私のもとへ。
まるで新しい家族を迎え入れるような気持ちになったことを覚えている。
昨年5月、取材でミキモト多徳養殖場を訪問する機会を得た。英虞湾を臨む入江にある養殖場は、無駄なものを一切削ぎ落とした簡素な佇まいである。
稚貝を育て、養殖真珠の「挿核」をし、海に戻して、さらに長い年月を経て真珠を採取する「浜揚げ」まで、養殖真珠を生み出す一連の作業がここで行われている。
その日、世界中のすべての陽光をこの場所に集めたような好天だった。
船にも乗せていただけるとのことだったので、カジュアルな装いで出かけて行ったが、あのパールネックレスを着けることを忘れなかった。私のところへきてくれた真珠たちを里帰りさせる気持ちだったので。
懐かしい木造校舎のような作業所で職人の皆さんが「挿核」作業に勤しんでいた。
非常に繊細な手仕事を黙々と丁寧にこなしてゆく。海に向かって気持ちよく開け放たれた窓からは、ときおり潮風がそよ吹いてくる。窓辺に並んで懸命に手を動かしている職人たちの姿は、いちまいの絵のように美しかった。
ふいに私は自分の襟もとに並んでいる真珠の粒に指先で触れた。
この真珠たちは、この地の豊かな海辺で長い間続けられてきた日々の営みの成果として生まれたもの。この輝きは、尊い命の輝きなのだ。
そう気がついた瞬間、美術館で名画に出会ったときに感じるそのままに、頭の下がる思いがした。
いまから130年前、この地で、世界で初めて養殖真珠が誕生した。それは、かのエジソンをして「驚嘆すべき発明」と言わせしめた画期的な出来事だった。
真珠王と呼ばれたMIKIMOTOの創業者 御木本幸吉は、「世界中の女性の首を真珠で飾りたい」との野望を決してあきらめなかった。
彼の志の高さを何より体現しているのがMIKIMOTOのパールネックレスではないだろうか。
幸吉が晩年を過ごした家が養殖場に隣接する小高い丘の上にある。英虞湾を一望する家は、決して華美ではなく、しかし味わいのある佇まいだ。
特に感じ入ったのは、家屋のあちこちに「◯」を取り込んだ意匠が見られたことだ。幸吉は「◯」の形をたいそう愛したそうだ。
「◯」が意味するのは「和」、「円満」、そして真珠である。太陽の、地球の形である。
英虞湾を一望する家で、水平線に日がのぼり、また日が沈む光景を眺めて、幸吉は未来の日本を、世界を思い描いていたのかもしれない。
平和に、美しく、調和をもった世の中であるように。すべてが円くなるように。この海から生まれた真珠たちのように。
時を超えていまに伝わる幸吉の思いは、海から生まれたひと粒ひと粒に姿を変えて、いま、私の襟もとで輝きを放っている。
豊かな海と自然、平和への思いを、円く、ひとつづきにつなげている。
写真はすべて原田 マハ撮影
原田 マハ
1962 年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒業。伊藤忠商事株式会社、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館への派遣を経て、2002年フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。2005年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞し、2006年作家デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞。