Skip to Main content
    お気に入りリストは空です。

Please select a location and what language you would like to see the website in.

VISIT SITE
小説 フェルメールとの約束

作家・原田 マハさんがMIKIMOTOのために
書き下ろした連載です。
ここでしか出会えない
真珠にまつわるエッセイや
ストーリーをお楽しみください。

Vol.3

フェルメールとの約束

展覧会を観ることができたら、物語を捧げる。
私は、そう約束したんです。フェルメールと。

美術史家で作家の私は、真冬のアムステルダムで途方に暮れていた。
チケットが完売しているフェルメール展を観たいという一心で、
パリから駆けつけたのだが……。

フェルメールの絵は物語のにおいがする。

パリからアムステルダムへ向かうタリスに揺られながら、私はつらつらとそんなことを思っていた。

小さな、それは小さなちいさな絵なのだ、フェルメールの絵は。でも、だからこそ引きつけられる。何が描いてあるのかと、身を乗り出し、できるだけ近寄ってみつめてみたくなる。まるで、恋する人の囁きを聞き逃すまいと、耳を、頬を近づけるかのように。

とりわけ、観るものをぐっと引き寄せるために画家が絵の中に巧みに仕込んだ磁石がある。──光の粒、「ハイライト」だ。

フェルメールの画中の人物、とりわけ女性は、光の微粒子をまとっている。ある人は唇に、ある人は瞳に、結い上げた金髪の毛先に、ミルクを注ぐピッチャーの縁に──そして真珠のネックレスに、イヤリングの円いゆらめきの中に。ごく細い筆先で混じり気のない白ひと色の粒をぽつりと置く、するとたちまち彼女はみずみずしい輝きにみち溢れる。たかが筆先のひと粒のハイライトで、あんなにも女性をみずみずしく、生き生きとさせる。大げさでなく魔法としか思えない技巧だ。

フェルメールの絵には、きれいなだけの空虚な絵空事は描かれていない。十七世紀のオランダで現実を生きていた彼女たち。日々の暮らしの中で、誰かを好きになったり、ふったりふられたり。恋文を書き、恋文を読み、ヴァージナルを弾き、リュートを奏で、窓辺に佇む。誰かに贈られた真珠のネックレスやイヤリングを大切そうにつけている。

みつめていると、彼女たちの声が聞こえてくる。彼女たちが笑いかける、語りかける、泣き出しそうになる、呼吸する、呼吸を止める、その一瞬一瞬を、共有しているような気持ちになってくる。彼女たちが体験したいくつもの忘れがたい物語が、絵の中で静かに、確かに立ち昇ってくる。

もしも、もしも──なんとかして、どうにかして、アムステルダムでフェルメール展を観ることができたなら。フェルメールに会えたなら。

そのときは、きっと物語を書く。光の微粒子の画家よ、あなたに捧げる物語を。

私は、アムステルダムへの道々、フェルメールにそう約束した。一方的に、だけど。

しかし、現実はそうたやすくはない。どこに行ってもチケットは手に入らないとわかっていた。たとえアムステルダム国立美術館のメンバーズ・デスクを訪ねたところで、「チケットは完売です」と言われるのがオチである。だいいち、私は別に同館のメンバーでもなんでもない。

私が所持しているのは、国際ペンクラブ(P.E.N.)の会員証と、国際博物館会議(ICOM)の会員証だった。私が職業作家であること、国際的なミュージアム活動の支援者であることを証明するこのふたつの会員証は、世界中のミュージアムでしばしば効果を発揮してくれた。これらが通行手形となって、さまざまな美術館、博物館、展覧会にアクセスすることができた。今回もこの通行手形をしっかりとバッグに入れて持参していた。

十四時、ホテルに到着。チェックインする直前に、念のため美術館に電話をしてみた。当日券は残っていないか、P.E.N.かICOMの会員証で入れないか、問い合わせようと思ったのだ。が、電話はまったくつながらなかった。やはり直接行ってみるほかはなさそうだと腹を括り、レセプションに向かった。

「こんにちは、ようこそ私どものホテルへ」

黒服を優雅に着こなしたレセプショニストの男性がにこやかに語りかけてきた。

「初めてのご利用ですか?」

「いいえ、何度も。数えきれないほどです」誇張でなくそう答えると、

「さようでございますか。ありがとうございます。お帰りをお待ちしておりました」いかにもスマートな返事が返ってきた。

「ご希望通り、シングルユースのツインルームをご用意しております。ただいまルームキーをご準備いたしますね。ウェルカムドリンクはいかがでしょうか?」

「いえ結構」私は少し焦り気味に答えた。「すぐに出かけなければなりませんので」

「承知いたしました」レセプショニストは軽やかな手つきでカードキーをホルダーに入れてデスクの上に滑らせると、「ほかに何かご要望はございますか?」さりげなく訊いた。

私はフロントデスクに身を乗り出すようにして、「あります」と答えた。

「フェルメール展のチケットを一枚、用意していただけますか」

レセプショニストは、二秒ほど、無言で私の顔の真ん中をみつめたあと、急に申し訳なさそうな様子になってこう言った。

「お気持ちお察しいたします、マダム。アムステルダムへやって来たほぼすべての人が、まさにいま、いっせいにそれを求めているでしょうから。が、正直申しまして、こればかりは……」

「いえ、いいんです」私は彼の慇懃な言葉をさえぎった。「言ってみただけですから」

そして、踵を返してエレベーターに向かいかけたところ、彼はもうひと声かけてきた。

「コンシェルジェにご相談を、マダム。エレベーター前のデスクにおりますので。我がホテルのコンシェルジェは大変優秀ですから、何か解決策を提案してくれるかもしれません」

コンシェルジェデスクでは、金髪を結い上げて黒いジャケットを着込んだ女性コンシェルジェがパソコンとにらめっこの最中だった。「こんにちは」と私は気さくに声をかけてみた。

「あなたの同僚から、私の無茶ぶりな要望に対してあなたが何か解決策を提案してくれるかも、と言われました」

彼女は顔を上げた。その拍子に、耳もとで小さな真珠のピアスがきらめいた。

「ようこそ。マダム。おかけください」

彼女は気持ちのいい笑顔で、私にデスク前の椅子を勧めてくれた。

「どのようなご要望でしょうか」

私は椅子に浅く腰掛けると、

「フェルメール展のチケット。一枚だけ、欲しいんです」

単刀直入に言った。

「今日から明後日まで、二泊三日、こちらに滞在します。その間に、ぜひとも行きたい。どうしても行きたいんです。いや、行かなければならないんです」

私は気持ちを込めて訴えた。そのじつ、半分以上あきらめてもいた。このホテルは確かにアムステルダムのベスト・ロケーションに位置していて、とてもフレンドリーかつ格式高いホテルには違いない。けれど、とっくに完売したプラチナチケットを入手してくれと駄々をこねる観光客にいちいち応えてくれるだろうか。私がここのコンシェルジェだったら、客の顔を二秒みつめたあとに、「残念ながら」と慇懃にお断りするほうに舵を切るだろう。

ところが、彼女は違った。じっと私の顔をみつめると、こう問うたのだ。

「行かなければならない、とおっしゃいましたね。なぜ行かなければならないのでしょうか?」

逆に質問を投げかけられて、私は一瞬、面食らった。──なぜ行かねばならないのか? そりゃあ、決まっているじゃないか。

「私は、フェルメールと約束したのです」

きっぱりと、私は言った。やはり気持ちを込めて。

「私は作家で、美術史家なんです。いままで美術史に取材した小説を数多く書いてきました。いつかフェルメールに関する物語を書こうと構想をあたためてきたんです。そのためには取材が必要です。今回の展覧会は素晴らしい取材になることは間違いありません。そうわかっていたんですが……チケット争奪戦に敗れてしまいました」

少しだけ話を盛ってしまった。いつかフェルメールの小説を書きたいとは思っていたが、そのいつかがいつなのかは決めていなかったし、わからなかった。だからチケットを購入するのに出遅れてしまったのだ。しかし、とにかくアムステルダムまで行ってみて、もしも何かがどうにかなって、奇跡的な何かが起こったりしたら……。

「展覧会を観ることができたら、私はフェルメールに捧げる物語を書きます。私は、勝手にそう約束したんです。フェルメールと」

そこまで言ってから、客観的に見るとかなりおかしな客だぞ私は、と急に気がついた。少々恥ずかしくなってしまった私は、自分の名前を告げ、英語版のウェブサイトのURLを彼女に教えた。

「フェルメールとの約束」などとおかしなことを聞かされても、彼女はていねいかつフレンドリーな態度をちっとも変えなかった。彼女はすぐにパソコンで検索して、私が作家であること、美術史に取材した小説をたくさん書いていることを確認した。

「面白そうな本ばかりですね。読んでみたいな。英語版はあるのでしょうか?」

「短編小説はいくつか英訳されたものがありますが、長編の英語版はないのです。フランス語のものはあるのですが……」

「フェルメールの物語を書いたら、それは英語になりますか?」

「さあ、わかりません。でも……なんにせよ、希望は捨てません」

彼女はしばらくパソコンの画面に視線を向けていたが、私の方へ顔を向けると、

「実は私、フェルメール展のチケットを一枚、持っているんです」

突然、そう言った。

原田 マハ

1962 年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒業。伊藤忠商事株式会社、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館への派遣を経て、2002年フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。2005年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞し、2006年作家デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞。

Vol.2 円い三日月

Vol.2
円い三日月

Vol.2を読む
Vol.4 庭の朝露

Vol.4
庭の朝露

Vol.4を読む