作家・原田 マハさんがMIKIMOTOのために
書き下ろした連載です。
ここでしか出会えない
真珠にまつわるエッセイや
ストーリーをお楽しみください。
Vol.3
フェルメールとの約束
展覧会を観ることができたら、物語を捧げる。
私は、そう約束したんです。フェルメールと。
美術史家で作家の私は、真冬のアムステルダムで途方に暮れていた。
チケットが完売しているフェルメール展を観たいという一心で、
パリから駆けつけたのだが……。
後編
中編はこちらなるほど、と私は驚かなかった。アムステルダム市民でホテルのコンシェルジェなら、当然いち早くチケットを入手できたのだろう。しかし、驚いたのはそのあとの彼女の言葉だった。
「そのチケットを、あなたに差し上げます」
私は目を瞬かせた。彼女の言っていることの意味がにわかに理解できなかったのだ。彼女は続けて言った。
「今日の午後四時過ぎに国立美術館の正面入り口へ来られますか。私は四時で上がるので、それからチケットを持っていきます。私、国立美術館の友の会メンバーなんです。会員証であなたと一緒に美術館の中へ入って、館内にある展覧会会場の入口までご案内します。ですから……」
「いや、ちょっ、ちょっと待ってください!」
私は思わず椅子から立ち上がって、彼女の説明をさえぎった。
「いくらなんでもそんな……私にチケットを譲ったら、あなたが観られなくなってしまうじゃないですか」
「大丈夫ですよ、私は」彼女はにこやかに応じた。
「仕事の関係でキャンセルチケットが回ってくることもあるはずですから。それに、私はずっとこの街にいるんだもの、チャンスは十分にあります。あなたはたった三日間でしょう? 取材もしなければならないわけだし。あなたが優先されるべきですよ」
それから、フェルメールの絵の中の少女のように、瞳をきらりと輝かせて言った。
「フェルメールとの約束、果たしてくださいね」
煉瓦造りの重厚で壮麗な建築、アムステルダム国立美術館の正面の壁には、女性の首の部分と真珠のネックレスとイヤリングがクローズアップされた「VERMEER」展の巨大なバナーが張り出されてあった。
広大な美術館広場は吹きっさらしで、立っていられないほど寒かった。私はやはり足踏みしながら、コンシェルジェの彼女の到来を待っていた。
なんのあてもなくここまで来てしまった。しかし、到着してすぐ予想もしない展開になって、私はありがたいのと申し訳ないのとで、心中複雑だった。
フェルメールがお膳立てしてくれたんじゃないか? と思いたくなるほど出来すぎの展開だ。もちろん嬉しくないはずなどなかったが、私がいまから行こうとしている展覧会は、いかにも人の善さそうなコンシェルジェの彼女が行くはずだったものだ。手放しでは喜べない気持ちもあった。
しばらくして、ダウンジャケットにデニム姿の彼女が現れた。私は全身で感謝を表さずにはいられず、駆け寄って思わずぎゅっとハグしてしまった。彼女は少しくすぐったそうに笑った。
私たちは昔からの友だち同士のように会話をかわしながら、広大な美術館の中へと入っていった。フェルメール展の入口の前まで来ると、彼女はポケットからチケットを取り出して私に手渡してくれた。
「──ありがとう」
展覧会を観るまえなのに、すでに胸がいっぱいになってしまっていた。
「どうか楽しんでください」彼女が言った。
「明日はホテルにいらっしゃいますか?」と訊くと、「明日、明後日はオフなんです」と返ってきた。
「そうですか……じゃあもう、お会いできませんね」
「またアムステルダムにいらしてください。このさきしばらくは、私もこの街にいますので」
「ご家族もアムステルダムに?」
何気なく尋ねると、彼女は首を横に振った。それから、深いまなざしを私に向けると、
「私の実家は、サンクトペテルブルグにあります」
そう言った。
はっとした。彼女は、私から目を逸らさずに続けた。
「私、アートが好きで、エルミタージュ美術館でツアーガイドをしていました。だけど……」
一瞬、言葉を探しているようだった。私は、息を詰めて次の言葉を待ったが、それ以上、何も言わなかった。
手を振って、彼女は館内の人混みの中へと去っていった。私は彼女の姿が見えなくなるまで見送った。
フェルメール展。広いひろい会場の壁に掛けられた、小さなちいさな絵。真珠に宿る微粒子の光。
そういえば、彼女の耳たぶにも小さな真珠のピアスが留まっていた。
白く円く平和な輝きが、時空を超えて、いま、ここに届けられている不思議を思った。何人たりとも侵すことのできない輝き。
約束通り、物語を書こう。そしていつか届けよう。アートを愛する彼女に。
フェルメール、あなたに。
後編は近日公開
原田 マハ
1962 年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒業。伊藤忠商事株式会社、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館への派遣を経て、2002年フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。2005年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞し、2006年作家デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞。