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ユーレイカ

作家・原田 マハさんがMIKIMOTOのために
書き下ろした連載です。
ここでしか出会えない
真珠にまつわるエッセイや
ストーリーをお楽しみください。

Vol.6

ユーレイカ

装いたいように装い、
生きたいように生きることの
美しさを描く、極上の掌編。

ベスはいつもたくさんの友人に囲まれ、ハンサムなボーイフレンドまでいた。
彼女に憧れた私は、教室の片隅でスタイル画をノートに写し取るようになる。

〈邪宗門〉は落ち着いた雰囲気のごく普通の喫茶店だった。煉瓦作りの壁に木製のテーブルと椅子が並び、窓辺には白いカーテンが下がっている。店内には常連らしい客が何人かいて、それぞれに本を広げたり小声で会話をしたり、穏やかな週末の午後のひとときをくつろいで過ごしていた。

ベスは狭い店内を奥へと進み、いちばん奥の席に座った。私は、どこにベスの憧れの人がいるんだろうときょろきょろしながら彼女の後についていった。

私が着席するのを待って、ベスがささやいた。

──見て。入り口のドアのすぐ横の席。

私はいましがた私たちが入ってきたドアの方を見やった。ドアの横、窓を背にして老婆がひとり、座っていた。テーブルの上に原稿用紙を広げて、一心不乱に万年筆を動かしている。私は目を見張った。

ボサボサの白髪、たるんだ頬の化粧っ気のない顔。襟なしの白いブラウスに黄色っぽいベージュのカーディガン、黒と茶の大きなチェックのボックススカート、生成り色のソックス、履き込んだ革のサンダル。テーブルの上には薔薇模様のティーカップと、氷が入ったコップが置いてある。ときどき万年筆を置いて、スプーンでコップから氷をひとつすくい上げ、ティーカップにポチャリと入れて、すすっている。

──えっ? あの人が……?

そう、とベスはうなずいた。

──私の憧れの人よ。

私は目を凝らしてその人をみつめた。何かを懸命に書いている表情は恍惚としていて、完全に自分の世界に浸っているのがわかった。彼女のルックをよくよく観察すると、一見みすぼらしいようでいて、何かとても強い、揺るがない意志が作用しているように見えてきた。

ブラウスも、カーディガンも、スカートも、靴下もサンダルも、彼女が本当に好きで好きで、それ以外を身につけたくないと思っていて、自分の体の一部のように大切に愛着を持って身につけている。そういう感じの空気がそこはかとなく漂っていた。

ベスに促されるまでもなく、私はノートと鉛筆を取り出し、彼女の様子を書き写した。スタイル画と言うよりも、彼女そのものを書き写してみたくなった。

彼女はおそらく何かを創作中だ。その熱気が伝わってくる、とてつもないオーラを放って。なぜだか鉛筆を握る私の手には、じっとりと汗がにじんできた。

好きなものだけに囲まれ、装いたいように装い、生きたいように生きている人がそこにいた。

ベスは、私がその人と同様、一心不乱に鉛筆を動かしているのを黙って眺めていた。

結局、私たちはその人よりも先に店を出た。

その人は朝から晩までその席に陣取って、何か書いているのだという。〈邪宗門〉のマスターから聞いた話なんだけど、と前置きして、ベスは私に教えてくれた。

耽美で個性的な小説やエッセイを書いている有名な作家。ベスはその人が書いたものをいくつか読んだことがあって、その中でいちばん気に入ったエピソードが、指輪の話。

彼女はもともと裕福な家庭の生まれで、十六歳のとき、結婚することになった。婚約の記念に、夫となる人が、銀座の「御木本」で指輪をあつらえてくれたのだが、そこに「ユーレイカ」と刻まれていた。ギリシャ語で「われ見出せり」という意味のその言葉を、あきれたことに、自分に相談もなく彫ったのだ──という話。

──ね、いい話でしょ?

ベスはそう言って、ふふふ、と、野ばらの笑みをこぼしたのだった。

卒業後、ベスはすぐに結婚したらしかったが、私が彼女に会うことはもうなかった。

私は、面接のときにスタイル画のノートを見せたことが功を奏して、アパレル企業に就職した。その十年後に独立し、自分のブランドを立ち上げて、いまに至る。毎日が忙しく、闘いだ。けれど充実している。

ときどき、思い出す。ベスのこと。〈邪宗門〉のこと。装いたいように装い、生きたいように生きていたであろう、あの女性のこと。

作家の名前は、森茉莉、といった。

彼女の書いたものを読んだのは最近のことだ。「ユーレイカ」のエピソードが出てきたとき、微笑とともにふと涙が込み上げた。

近ごろ、やたら涙腺がゆるい。そういう年なのだと思う。

原田 マハ

1962 年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒業。伊藤忠商事株式会社、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館への派遣を経て、2002年フリーのキュレーター、カルチャーライターとなる。2005年『カフーを待ちわびて』で第1回日本ラブストーリー大賞を受賞し、2006年作家デビュー。2012年『楽園のカンヴァス』で第25回山本周五郎賞を受賞。2017年『リーチ先生』で第36回新田次郎文学賞を受賞。

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